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いきなり忙せはしなく立上ると庫裡へ走つて行つて、間も無く茶器を揃へた盆を自分で持ち運んで来た。長い胴を折り曲げるやうな危つかしい調子で房一の前に置くと、
相手は何か答へたらしかつたが、房一のところへは聞きとれなかつた。今まで静まりかへつて事の成行を見まもつていた人だかりが急にどよめいたからである。そして、柵の向ふでは、相手になつている男のうしろに出張所側の連中がかたまつていた。その長身の男も今更後へはひけないと云つた様子だつた。その時、房一の肩をまだ押へつゞけていた練吉の手が痙攣するやうにふるへた。
尿には蛋白質はなかつた。排便を顕微鏡でのぞいてみた。いる、いる。蛔虫に十二指腸虫の卵がうんとこさ見えた。
「先生お帰りになりましたかね」
「あなたは御存知ないんですかね」
房一の出先きで起きたこと、何かしら普通でないその事を理解しようとして、盛子は房一の顔をまじまじと見まもつた。
房一の帰るのを見送つた正文は、玄関から居間へひき返しかけたが、ふと考へなほして診察所の方へ行つた。すると、そこの廻転椅子の上に、行儀わるくずり落ちさうに腰かけて、両脚を床の上に思ひきりのばした恰好の練吉が、新聞紙を両手で顔の上に持ち上げながら読んでいるのを見つけた。
「さあ、どうぞ。仇かたきの家へ行つても朝茶はのめ、と云ふことがありますよ。お茶ぐらいはのんでもらはんと――」
「今晩、寄せてもらつてもえゝですか」
「フム」
「さあ。どうぞ、どうぞ」
向ふでも房一を認めたらしい。さう思はれる仕方で、ぐつと速力をゆるめながら、だんだん近づいて来る。はじめは房一の方にこらしていた目を途中で一寸伏せ、又何気ない風にこちらを眺めながら降りて来た。
間もなく房一は別れを告げ、庭前で又馬の前に立つて二三の話をし、相沢の家を立去つて行つた。相沢のやうな家を患家に持つことは、十軒もの小患家を得たに匹敵すると、ひそかに満足しながら。そして、今日のもてなし方から考へると、医者として十分好意を与へたにちがひない、といふことにも満足しながら。